残缺の美

yo1

2012年03月04日 14:00

残缺・・・「ざんけつ」と読みます。

色々な意味があるのでしょうが、一般的には不完全な,欠落のあるという形容詞です。

わたしてきには、「残りの,終り間近の」という意味に惹かれます。

TV何でも鑑定団、鑑定士でもある友人のI氏が持ち込んでくれた「供養者像」



ガンダーラの仏像の光背の一部でブッダに手を合わせるひげを生やしたアーリア系の仏教徒です。

彼は、この像を評して「残缺の美」と呟きました。

言いえて妙な表現だと感じていました。

北国の春は三寒四温、まだまだ春が来たと言えないもどかしさの中で木の芽・草の芽がむき出しになった日向で、春の準備をしています。



アジサイは、葉をくるんでいた冬用オーバーを少しだけはだけていますよ。

くる季節があれば、去っていく季節もあります。

今朝仕事場に、入る前に「残缺の美」をカメラ片手に捜してみました。


南の島から拾ってきたハチの巣サンゴのかけらには、鮮やかな緑の苔がめぶいていましたよ。


昨年栽培したゴーヤの蔓は高いところがとりきれず、春風に亡霊のようになびいていましたよ。


残雪だって、消えていく哀しさが形になって美しいと思います。


残缺の美まではもう少しですが、にぎり地蔵とテーブルサンゴに刻はどんなお化粧を施してくれるのでしょうかね。


この写真は、森口豁の沖縄日記を書いている森口豁さんが、写真家平敷兼七さんの写真集、「山羊の肺」より紹介されたものです。

以下、抜粋

【写真】 沖縄戦でたおれた死者たちの「語り相手」にと、知恵遅れの子どもたちが造った小さな土像。摩文仁界わいの路傍や野辺や海辺で、静かに時を送り「土」に還る。身体障害者と写真家平敷兼七の優しさが響き合った1枚。(了解もとらず借りてきていますので、いつでも削除の用意はあります。お知らせください。)

平敷兼七さんについては何年も前に沖縄勉強中のころ、この写真集を探し求めてパレットの本屋さんに行った記憶があります。

すこし、興味がありました。

この1枚に、「残缺の美」とともになにかが移し撮られていると感じます。

撮影者が、己の傍らに置くことを許したもの・・・。

撮影者のすごみが伝わってくるのです。


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