かんがえた。
オトンが亡くなって、オカンは独り暮らしだ。
毎日定時に、”元気だよコール”を掛けてくれる約束です。
日曜日、かかってこなかった。
嫁はんと2人で、実家へ走った。
オカンは元気に「は~い」と台所に立っていた。
ホッとしました。
持たせてある携帯と固定電話に掛けたのだが、外の掃除をしていたのと耳が遠くなっているのと元気コールを忘れたために要らぬ心配をした。
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オカンは、オトンとオカンの住んでいたところでの同居を承諾してくれたのだが、亡くなったオトンの相続権利者の1人が遺産分割に異議を唱えたというか、今までの実家(私ではない・オカン)の自分の扱い?に異議を唱え、分割協議のテーブルにすらつかない。
それは、オトンが死んで初7日から始まった。
えっ?なにか失態があるのかな?
49日法要やその他の事項の都度、進行が止まる。
先に過去を謝れということなのかな?
なんか、日中・日韓関係みたいだな。
過去の清算?
…・心当たりがない。
やがて自分的には気づいた。
駆け引き?
人間としての”尊厳”の問題(かなり大袈裟ではある)。
こういう形で、駆け引きの道具に使ってもらいたくない自分がいます。
たなざらしで、7か月が過ぎようとしている。
テーブルにつかないから、手の打ちようがない。
この件の時間は止まった。
オトンの遺産に関するすべての事業・権利関係から実質上距離を保ち公平性と透明性に心がけた。
温泉などは典型例です。
この作業に、多くの時間と”こころ”を割かれました。
オカンは現在地では、友人や知人も多くぼけている暇がないほど人の出入りが多い。
それはとてもありがたいことで、その状況を変えて私たちが住むところへの移転はオカンの幸せのためには良くないと思っている。
まだ先のことです。
で、かんがえました。
先方が、ハンコ押さないなら自分の方も押さない?
これでいいのだと。
食っていけるならば、それでいいじゃん。
オカンは、現在の家で元気な間は独り暮らしが気楽と言う。
わたしも、それを良しとする。
人の心と言うものは、自分も含めてあさましいとおもう。
自戒を込めて生きたいと思う。
これは人としてどう生きるか?
”人としての尊厳”の問題です。
残された自分の時間に大切なのは、多分財産ではなく(生きていく最低限の収入があるならば)、どう生きたか、どう生きていくか?なのです。
オカンのことなど解決しなければ、沖縄へ安心して行けない・暮らせない。
楽しくないから。
来年早々、私とよめはんの母親二人を連れて、沖縄へ行く予定。
それは、亡くなった弟の散骨した秘密の浜辺へ歩ける間に連れて行く約束を果たしに。
二人を連れていける幸せを感じている。
それでいいのだ。
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