番台当番と温泉浴槽の掃除を終えて今帰ってきました。
社長さんは普段は誰もいなくなった浴槽掃除がメインですが、人の都合がつかないときは番台に座ります。
パグさんが、かってがっかり?したように女風呂の更衣室からは完全に離れた場所に番台はあります。
そして、たとへそれが連結していたとしても平均年齢「あれから40年」以上と感じるご婦人方がたの「・・・」を妄想する元気は還暦・不惑にしてパワー不足を感じています。
さらに、お客の年齢を上回る81歳の最年長おばぁ番台さんがいます。
誰が呼んだか
「おくりびと温泉!」
最年長おばぁは、もう暖房機器の灯油タンクのスクリューキャップを、よう開けません。
つまり、給油ができないのです。
今年、そう訴えられて最先端のピンを引くだけのタンクの17畳用ファンヒーターを購入しました。
夜遅く浴槽掃除に行くと、灯油タンクがほとんど空に近い日が続きました。
温泉とはいえ、湯船は抜かれているしパンツ一丁で外気は零下の中での労働で、作業を終えてから深深と底冷えする貯蔵所へいって給油ポンプを使うのは辛いし、第一翌朝の番台さんもスイッチ入れても燃料が空だったらすっごくがっかりするのがよくわかる。
で、うちの温泉には、番台連絡帳があります。
「次の人への思い遣りを持とう」という、呼びかけをしたのですが・・・。
連絡帳の記述に「それは、思い遣りじゃなくて気遣いじゃないの?」という目にもとまらぬ左フックが飛んできました。
よけきれずに・・・・。
「え~、えっっ!・・・???????」って感じ?
けっこうパンチ力ありました。
つーか~、国語の試験されるとは思いもよらなかった。
わかります?
「思い遣り」と「心遣い」
片道約40分の通勤距離ですが、自宅に帰るまで「思い遣り」?「気遣い」?「思い遣り」?「気遣い」?・・・・・・・・・ずっと頭の中がこの単語がリフレィン。
いやぁ、感覚的には違うとわかるんですが、この違いを明確に他人に説明できない。
帰って、すぐパソコンに座り検索してみました。
・・・・・世の中、同じ疑問の人結構多いわ。
「思い遣り」に関して突っ込みどころはあると感じた答えの一つだけ紹介します、しかし納得の部分もあります、とても興味深い意見だと思いました。
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思いやりの原点は、自分をよく知ることです。
自分を知れば他人がわかります。
わかるとは、自分の気持ちを知ることに他なりません。
自分の気持ちを知れば、必然的に他人の気持ちもわかるようになるのです。
そういう意味で、自分を大切にできる人でなければ、他人の気持ちを汲むことはできません。
知れば、自然に心が動くようになるのです。
思いやりという行為は、そうやろうとして出来なくもないのですが、
それでは形だけになってしまうでしょう。
人の置かれた立場や気持ちを知れば、自然に流れる思いが「思いやり」というものです。
相手が求めているものを与えてあげるのが思いやりです。
相手が求めているものを知るには、気持ちを知らなければなりません。
気持ちを知るには、自分を知らなければならないのです。
自分だったら、そういう立場に立った時、どういう感情になるだろうか?と。
つまり、人として自分の感情や思いを素直に見つめられる人、換言すれば自分の感情をいい加減に扱わない人が他人の心も理解できるのです。
したがっておもいやりの原点は、自分を大切に扱うことから始まるのです。
思いやろうとして思いやる以上に、気持ちがわかれば、水のように自然に流れ出る情が、思いやりの核心ではないでしょうか。
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敢えて語らせていただくならば・・・・帰りの車のわたしの思考回路。
前提:「自然にできるのが思い遣り、考えてするのが気遣い?」
疑問:わたしの求めた「次の人が苦労しないように」というわたしの「想い→情けは人のためならず。」に対して、求められた相手の意識は那辺にあるのか?
結論:思い遣りと気遣い、違いがわかって言ってるんかいなぁ?
総括:話せば判る・・・・・・・かなぁ~。
社会的な共同生活を営む上では大切なことで、気遣い→疲れる、思い遣り→やすらぐ。
お~し、論理固まりましたぜよ。
助言・ご意見。異論・反論等がありましたら、コメントを。
寝ます。