2012年03月13日
村の掟
3.11について、雉は鳴かないと誓っていた。
昨日9時のNHKニュースで、東京の1年間の被ばく量が基準の40分の一という東京大学の特任教授と言う人の調査結果を報じていた。
NHKだなと思ったのは、現松本市長でチェルノブイリの原発事故のとき現地で医師として調査された方のコメントを入れていたこと。
曰く「呼吸からも常に飛散物質として吸うわけで、すべての体内被曝をどのような基準で行うかは判断がまちまち」と言うようなことであった。
フクシマのローカル紙は報じる。
陰(かげ)膳方式と言って、家族分より1人分多くの食事を作り放射能物質の測定を行うわけである。
フクシマの食卓は、基準値の20分の一!
安心安全が確保されているということなのか?
♪ちょっとまって、今の言葉、PLY BACK・・・♪
算数の時間です。
てことは、フクシマ東京の20倍?
今日、福島の友人と仕事の事で話をした。(ぁ、7月フクシマで展示会です。)
彼が語る「フクシマNOW」はある意味この国のカタチを想起させる。
フクシマに住むことに危険を感じ避難した人は、村を抜けた脱村者で残って住んでいる人は快く思わない風潮があると感じる。
その避難した人間が、声高にしゃべろうものなら「フクシマをつぶす裏切り者」なのであろうか。
フクシマのローカルでアナウンサーをしていた女性が石川の実家に避難してきた。
彼女は、集会で「ローカルニュースの中で3歳から5歳の子供たちにもいだばかりで洗いもしない果実をおいしいとかじらせ、子供たちも明るく頑張っています」とニュース原稿を読ませられた時に大きな心の痛みをかんじたと話した。
いまだにフクシマに住んでいる・離れられない人たちから、「復興」を妨げるのものとして大きな非難や中傷を受けたと聞く。
これは、「村の掟」であり「村の論理」ではなかろうか。
村とは、閉鎖社会の代名詞でもある。
優先されるのは、「秩序」という縛りであると考えている。
何よりも、いや見て見ぬふりをしても平穏無事なのである。
国が受け入れを要請する被災地のがれき処理についても、沖縄県の仲井間知事は前向きな発言であると聞く。
それは大変勇気のある、そして適切な判断で基地問題と同じ論理のもとでは矛盾が生じない論理の一貫性を感じる。
問題は、その決定を霞が関の闇で蠢く者たちが、情報を握りつぶして誘導していく危うさなんだと思う。
政治家ではなく、その者達が明治の新政府発足以来営々と築き上げてきた利権構造を手放さないことにあると、フクシマの事故は白日にさらしたのだと感じている。
政権が変わろうとも、その者達はがん細胞のように根付いているのである。
それこそ、日本村の掟なのでしょうか?
以下、友人の許可を受けて、昨日いただいたメールの一部ですが「フクシマNOW」をお読みください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ご無沙汰しております。
一方的にブログは拝見させていただいております。
ふきのとういいですね。こちらはミミズがキロ当たり2万ベクレル。濃縮の桁が違っ
てきました。(黒苔が100万ベクレル越え・南相馬)
地産地消! もちろんスーパーでも売ってますが、まず買う気にはなれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
食物連鎖は進んでいるのです。
何も,セシゥムが消えたわけではありません。
思いもよらぬ形で、道端などに凝縮されつつあると思います。
七五三に、おとうさんおかぁさんに向かって「俺たち、放射能にまけねぇど~」とTVの画面に向かって言わせるくらいなら事実を正確に伝え、ともにはんだんするという民主主義をどうして教えないのか?
これでは、大本営発表を信じ、欲しがりません勝つまではと竹やり訓練とバケツリレーでB29に挑んだおとうさんおかあさんたちとおんなじじゃ~ないでしょうか?
フクシマの友人は言う。
大本営発表と。
1年を経て、事故当時と同じ発想。
しらしむべからず、よらしむべし。
彼らの弱点はわかっています。
知識。経験集約的な事象には強いが、想定外には極端に弱く機能不全に陥るのです。
これは、すなわち「村の掟」に縛られているからです。
雉、鳴きました。
昨日9時のNHKニュースで、東京の1年間の被ばく量が基準の40分の一という東京大学の特任教授と言う人の調査結果を報じていた。
NHKだなと思ったのは、現松本市長でチェルノブイリの原発事故のとき現地で医師として調査された方のコメントを入れていたこと。
曰く「呼吸からも常に飛散物質として吸うわけで、すべての体内被曝をどのような基準で行うかは判断がまちまち」と言うようなことであった。
フクシマのローカル紙は報じる。
陰(かげ)膳方式と言って、家族分より1人分多くの食事を作り放射能物質の測定を行うわけである。
フクシマの食卓は、基準値の20分の一!
安心安全が確保されているということなのか?
♪ちょっとまって、今の言葉、PLY BACK・・・♪
算数の時間です。
てことは、フクシマ東京の20倍?
今日、福島の友人と仕事の事で話をした。(ぁ、7月フクシマで展示会です。)
彼が語る「フクシマNOW」はある意味この国のカタチを想起させる。
フクシマに住むことに危険を感じ避難した人は、村を抜けた脱村者で残って住んでいる人は快く思わない風潮があると感じる。
その避難した人間が、声高にしゃべろうものなら「フクシマをつぶす裏切り者」なのであろうか。
フクシマのローカルでアナウンサーをしていた女性が石川の実家に避難してきた。
彼女は、集会で「ローカルニュースの中で3歳から5歳の子供たちにもいだばかりで洗いもしない果実をおいしいとかじらせ、子供たちも明るく頑張っています」とニュース原稿を読ませられた時に大きな心の痛みをかんじたと話した。
いまだにフクシマに住んでいる・離れられない人たちから、「復興」を妨げるのものとして大きな非難や中傷を受けたと聞く。
これは、「村の掟」であり「村の論理」ではなかろうか。
村とは、閉鎖社会の代名詞でもある。
優先されるのは、「秩序」という縛りであると考えている。
何よりも、いや見て見ぬふりをしても平穏無事なのである。
国が受け入れを要請する被災地のがれき処理についても、沖縄県の仲井間知事は前向きな発言であると聞く。
それは大変勇気のある、そして適切な判断で基地問題と同じ論理のもとでは矛盾が生じない論理の一貫性を感じる。
問題は、その決定を霞が関の闇で蠢く者たちが、情報を握りつぶして誘導していく危うさなんだと思う。
政治家ではなく、その者達が明治の新政府発足以来営々と築き上げてきた利権構造を手放さないことにあると、フクシマの事故は白日にさらしたのだと感じている。
政権が変わろうとも、その者達はがん細胞のように根付いているのである。
それこそ、日本村の掟なのでしょうか?
以下、友人の許可を受けて、昨日いただいたメールの一部ですが「フクシマNOW」をお読みください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ご無沙汰しております。
一方的にブログは拝見させていただいております。
ふきのとういいですね。こちらはミミズがキロ当たり2万ベクレル。濃縮の桁が違っ
てきました。(黒苔が100万ベクレル越え・南相馬)
地産地消! もちろんスーパーでも売ってますが、まず買う気にはなれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
食物連鎖は進んでいるのです。
何も,セシゥムが消えたわけではありません。
思いもよらぬ形で、道端などに凝縮されつつあると思います。
七五三に、おとうさんおかぁさんに向かって「俺たち、放射能にまけねぇど~」とTVの画面に向かって言わせるくらいなら事実を正確に伝え、ともにはんだんするという民主主義をどうして教えないのか?
これでは、大本営発表を信じ、欲しがりません勝つまではと竹やり訓練とバケツリレーでB29に挑んだおとうさんおかあさんたちとおんなじじゃ~ないでしょうか?
フクシマの友人は言う。
大本営発表と。
1年を経て、事故当時と同じ発想。
しらしむべからず、よらしむべし。
彼らの弱点はわかっています。
知識。経験集約的な事象には強いが、想定外には極端に弱く機能不全に陥るのです。
これは、すなわち「村の掟」に縛られているからです。
雉、鳴きました。
Posted by yo1 at 14:04│Comments(0)
│日記