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2017年05月30日

哀しみのルフランとノブレス・オブリージュ

ノブレス・オブリージュ:高い地位にあるものは、言動・行動にそれなりの責任が普通よりあるという自己中の危ない考え方?

本来的な意味を置いといて背後にあるのは、自分を律するプライドなのかな?

最近知った言葉「記憶の合理化」

オトンが死んで、事務的・世俗的な後始末が続いています。

忌明けになり、遺産分割協議の資料造りと会議の設定までこぎつけたわけで・・・・。

すべての段取りは、私に委ねられているわけだけど…。

自分の悲しみに蓋をして淡々とこなしているわけだけど、どこかでそろそろ「こころ」の開放をしなければいけません。

私だって、悲しみに浸りたいのです。

じつは、「オトンの死」直後の記事は、この下書き記事が元に書かれました。

そんな意味では、この雉が書かれ始めた最初を振り返るには良い文章となっています。

決して、書いてきた過去は消せません。

このあと、すべて削除しようとも記録ではなく記憶に残っているからです。

以下は、下書きで保存されていた文章。
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最初に・・・。

このブログに帰結と言うものがあるならば・・・・。

否、区切りと言う言葉が適切かもしれない。

それはこの記事が、ブログ上にUPされた時なんだろう。

この記事は、ひとつの時間で書かれないだろう。

何度も何度も、書き直しそして書き足し終章へと向かうはずだから・・・・。

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ルフランはフランス語で、英語ではリフレイン。

特定の言葉などを繰り返すことを言う・・・・・・・。

新世紀エヴアンゲリオンという90年台に話題になったアニメの挿入歌の中に「魂のルフラン」というタイトルがあり、その言葉に酔った。

「色」。

そう!

その言葉が持つ「色」に酔ったのだろう。

サフランは「黄色」を連想し、私はルフランに形がはっきりしない「白」を感じた。

これから書こうとしている「語り」には、「答え」がないと感じている。

それは、人間は「神」ではないということと、同義語かもしれない。

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弟が自死した。

捉まえたはずのわたしの手から、通り抜けて滑り落ちたかのような感覚であった。

誰にもいわなかったけれど、予兆の瞬間はあった。

彼は、1週間近くずっと付き添っていた私に「行くな」と動作で求めたのである。

私はそのとき疲労困憊していて、その日の夕刻家族のもとへ帰って行ったのである。

彼の歩んだ人生の大半を過ごした時期を捨てさせる代わりに、かれと共に歩む決意を胸に…。

翌朝、彼は「骸(むくろ)」となって私に発見された。

第一発見者は、犯人?

取り調べから始まり、両親への報告、かれの家族と私の家族との相克・・・・・。

すべてが私の上にのしかかりそのすべてが、冷静な計算と予測を伴うおおよそ「感情」とはかけ離れた「功利」と「打算」という判断が求められたと思っている。

死者への追慕ではなく、生き残ったもの達の着地点の「模索」と言えるだろう。

彼をとり落としてしまった自責は、己の中に今でも深く深く想いが漂流している。

彼を「殺した」のである。

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自責と言えば、済む話でありそうしたいのは、やまやまである。

しかし、自分に説明がつかない。

「無明」と言う言葉がある。

「無明」とは人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。(抜粋)

さらに・・・・。

「無明が人間の苦の根元である。だからこの無明さえ取り払って、真の智慧を獲得すれば、全ては解決する」

「ものごとは、人が思っているほど、複雑ではない。ごく単純な法則が、根底にあり、それが絡み合って見えるから、複雑に見えているだけなのである。」

そうなんだと・・・・。

「トリミングの法則」。

つまり、「最後にあなたに何が1つ残ればいい?」

そう、持っているものをすべて守ろうとするのではなく、残すもの1つを考える。

簡単・・・・・そして大変!

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無いものを、あると考えてしまう心の錯覚(働き)が無明の本質である。

心はタマネギのようなものだ。

だから心そのものが、自分の心を理解していないことは明らかである。

よく無明は闇にたとえられる。

人間の智慧(想像力)という光を持って闇を照らせば、確かにそこには何もない。

暗夜行路。

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死出の旅路という意味・・・・死んでからの黄泉の国での旅路か死へ向かう旅路か?

仏教徒は死ねば、次の世界に行く。天国・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界があり、何所へ行くかは十回の裁判によって決まる。初七日・二七日・三七日と続き、四十九日までに七回の裁判を受け、さらに再審として百か日・一周忌・三周忌(実質二年目)、計十回の裁判で結審となり行く先が決まるのである。

 余談になるが、なんとか良い所へ行ってほしいと思い、残されたものは故人を偲び、讃え、裁判官によい影響を与えるために裁判の前日に法要を行う。これを逮夜(たいや)という。最近逮夜を土曜日、日曜日に行うところが多いが、理論的には裁判の前日以前に行わねばならず、裁判が終ってから逮夜をしても手遅れである。

 初七日の裁判を受け、二七日に向かう途中、三途の川が流れている。生前比較的いいことをしてきた人は橋を、少し悪いことをしてきた人は浅瀬を、かなり悪いことをしてきた人は深みを渡らされることになるという三つの渡り方がある。

 閻魔大王も五七日(三十五日目)の裁判官であり、地獄におられる方ではない。

 ところで閻魔大王を初め、十回の裁判官が裁くのは、戒律を守り、仏教徒として生きてきたかという生前の罪である。

 守るべき戒律を、私は次のように教えている。

物の命を殺すことなかれ、人の物を盗むことなかれ、男女の道を乱すことなかれ、酔いしれて勤めを怠ることなかれ、他人の過ちをいいふらすことなかれ、己を誇り他をあしざまに言うことなかれ、怒りによりて自分を取り乱すことなかれ、神仏や祖先に不敬の念を抱くことなかれ。

 これだけの事であり、これができれば地獄に堕ちる事はないが、なかなか守れない。

 お釈迦様もその事を知っておられ、私たちが戒律を守れない原因は、むさぼり・怒り・愚かさであり、自分の身と口と心により生じるのであって、自ら懺悔せよと言われている。ここで大切なのは戒律を守れなかったことの原因は、自分自身にあって、外のものや他人のせいにしてはならないという事であり、自己責任が仏教徒の原則であり、戒律を守ろうと努力し、守れなければ反省懺悔するということを繰り返していくのが仏教徒のたしなみなのである。

 三途の川の渡り方、裁判の行方は、全て生前の自分の行いによって決まるということを現代人は肝に銘じてほしい。

 三途の川は六文銭をもって行けば、渡し舟で渡してもらえると聞き、お寺で六文銭を買い、「俺が死んだら棺桶に入れてほしい」と奥さんに頼んでいる友人がいるが、奥さんはコソッと私に「絶対に入れてやらない」といっていることを本人は知らない。

 また閻魔大王の前で、「俺が悪いんじゃない酒が悪いんだ」と言うこともなかれ。

(「京都新聞」2006年9月19日付夕刊、コラム「現代のことば」)(掲載:2007/01/15)

ふぅ~む、わかったようなわからんような微妙。

今更遅いわ。

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Posted by yo1 at 21:50│Comments(1)語り
 
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