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2012年04月11日

この1冊:続き

寝不足はいけない。

思考能力を奪う。

昨夜は、ブログを眠いのに我慢して打ち込み「爆睡」。

爽やかな朝を迎えることが出来ました。

昨夜の記事を改めて再読。

このタイプの記事は、昨日のも含めて過去2度ブログに書いている。(メタちゃんが「はぁ?」っと書きこんだコメントの記事で、書き直してあります・メタちゃんはたいしたもんです。普通の大人は、こんな時近寄らないのです。これを処世術と言います。)

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この1冊:続き

「かもめのジョナサン」

「おやゆびひめ」の翻訳をしてみようと思ったとき、3階のロフトの書庫に上がりそれこそ乱雑に積み上げられた本の山から、英語の辞書を探し出しているときでした。

何冊かの、過去に読んだ本が目に留まりました。

・・・・・・・呼んだ?・・・・・・正しくは、そんな感覚なんですが、うまく説明できないしする気もない。…・どうでもいい事。

装丁も目立つのですが、数十年ぶりに「砦」に降ろしてきて、ベッドサイドにおいてありました。

いつか読むんだろうなと。

「かもめのジョナサン」

1970年、作家リチャード・バックにより発表され、世界で広く読まれた本です。

私が持っている本は、五木寛之さんが訳され1977年に新潮社から発刊されたものです。

今朝からこの本、ちらちら目に留まる。

自分に素直になってみます。

以下は、さっきからネット上で集めた「かもめのジョナサン」の中の一節の抜粋です。

結論から言うと、「なるほど、これが落ちだったのか」と言う話なんですけれど。

以下、リチャードバックの言葉とショート「かもめのジョナサン」五木博之翻訳の文章の抜粋です。(私が言うと、嘘くさいかもしれないけれど一応ブランドと言うことで。)

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群れの中の平凡な一羽になろうと決心してしまうと
とてもくつろいだ気分になってきた。
もうこれからは自分を飛行練習に駆り立てた、あの盲目的な衝動から解放され
二度と限界に挑戦することも、失敗することもないだろう。
馬鹿なことは忘れるがいい。
群れの仲間のところへ飛んで帰って、あるがままの自分に満足しなくちゃならん。


噂というやつは、誰かを悪魔にしちまうか神様にまつりあげてしまうかのどちらかだ。


夢を与えられれば、それを実現する力を必ずあたえられる。

人間は大体、目に見えるものしか信じてないでしょ。例えば雨が降って、地上では傘をさしてる。
だけど、飛行機で雲の上に上がってしまえば、そこに太陽はある。
人々は頭上に太陽があることを、忘れているだけなんだ。

人間が本当に愛するものを、見つけるのは大変なことでそれが見つからない人もいると思うんだ。
だけど、いつかは絶対に、自分の好きなものが見つけられると信じること。
ドアはどこもかしこも閉まっていて絶望的になるけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くことがある。
そこに入っても、更にドアが閉まってる。
必死になって叩くとまたドアが開く。
その繰り返し。
だけど、それが自分の一番求めている道だと、信じること。

わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。
もしここで何も学びとることがなかったなら、次の世界もここと同じことになる。

責任を回避するいちばん良い方法は、「責任は果たしている」と言うことである。

愛すべき尊敬する人を見つけて、その人のために自分の人生を送ったら、
僕たちは最も暖かいベッドを手に入れられるのです。

自分で引き寄せる出来事に偶然はないのだ。たとえそれが不愉快でも学ぶ必要はある。
問題を直視するべきだ。


おぼえているかね。われわれの肉体は思考そのものであって、それ以外のなにものでもないんだということを。

自由が欲しい時は、他人に頼んじゃいけないんだよ。
君が自由だと思えばもう君は自由なんだ。

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前の記事で紹介した、アウトオンナリムの内容と、極めて類似していることが今朝判明。

これはある意味、70年代の思想と言えるのかもしれない。

「気付き」と言う作業を繰り返し、わずかでも先に進んでいける事を宗教という従属的な束縛感なしに。成し遂げたい。

そのために、シグナルと言う小さな予兆を見逃さずに、自分の心に素直になる。

訓練だと思う。

嫁さんは、お手伝いでも秘書でもない。

パートナーだ。

だから、自分のことは自分で管理するのが当たり前のことだ。

大事なことは、我慢することでなく自分が納得することなのだ。

極論ですが、嫁はんは嫁はんの「気づき」があるはずで、小さな親切大きなお世話はしない。

冷たいかもしれないが、それが自分の人生の「気付き」かも。

いやいや、けっして何もしないという意味ではないんですよ。

めでたし、めでたし。











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Posted by yo1 at 08:18│Comments(0)日記
 
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