2012年10月01日
阿弥陀堂
「阿弥陀堂だより」という映画がありました。
嫁はんが、えらく気に入り何度も何度もDVDを借りてきて見ていました。
茨城県の笠間から栃木県の益子へと高速を使わず一般道を走っていた時のことです。
「あれ、阿弥陀堂でないか?」


車を路肩に止め、近づいてみることにしました。


そう近くない昔に街道沿いに置いてあったであろう野仏や地蔵が「堂」への杣(そま)のような道にひそやかに祭られていました。

彼岸花が赤い帯のように一帯を取り囲んでいます。

程よく刈り込まれて手入れされた様子に、今は仏となった人々への畏敬と祈りを感じました。
阿弥陀とは、生きとし生けるものを見守る仏さまではありません。
死者を浄土に導く役割の仏様なのです。
そして、浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀如来が本尊として祭られているのです。
だから、お堂の横には墓石があり裏の後背地に相当数の墓が認められました。
逝ってしまった人たちが、寄り添って密やかに居る場所なのです。
本能的に陰の気がかんじられたような気がしました。
早々に立ち去りましたが、祈りと別の興味で近づくものには、やはりある種の拒否感が生ずるのは当たり前のことかもしれませんね。
この項、少し長く書きたいと思っています。
北関東へ夫婦で向かいました。
往復16時間は、車内で二人きりです。
今年還暦を二人で迎えています。
「いままで」と「これから」を語り合うには充分な時間とタイミングでもありました。
その話に行き着くために、「阿弥陀堂だより」という映画の紹介をさせてください。
そしてそのまえに、阿弥陀堂の阿弥陀如来について基礎知識をご紹介します。
阿弥陀如来は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の教主です。
阿弥陀は仏になる前は法蔵菩薩という名前でしたが、その法蔵は修行中に誓いを立てます。
それは「未来永遠にわたってあらゆる人々が浄土に行けるようにします。
「それができなかったら私は仏になりません」という内容のものでした。
これが阿弥陀の本願と呼ばれるもので、その中に「どのような人でも心から極楽浄土に行きたいと願って念仏を唱えれば必ず浄土に行ける」というものがありました。
これを重視したのが浄土宗・浄土真宗で、阿弥陀のその心を信じ、極楽往生を願って「南無阿弥陀仏」と唱えれば必ず極楽へ行けると説いたのです。
ここに「南無阿弥陀仏」という念仏が生まれました。
つまり阿弥陀仏にすがって極楽へ行きましょうということで、これを他力本願といいます。
(つまり、他力本願というのは自分では何もしないでいいというのではなく、最低でも阿弥陀にすがる気持ちがないと成立しません。)
つまり、ぶれない信念の誓いを持つということなのでしょうか?
この考え方は庶民から大変歓迎されました。
本来の仏教の思想というのは生病老死に象徴される生きとし生ける者の苦悩をどのようにしたら克服できるかということを思索することにあります。
この為仏道に入った人々は色々な修行をして悟りを開き、解脱・即身成仏の境地に至るのです。
しかし、そのようなことは普段の社会的生活とはどうしても両立しません。
また仏教には色々な戒律があった訳ですが、それもとても庶民には守れるものではありませんでした。
そのため、それまでの仏教では、庶民は永久に救われなかったのです。
「救い」のための方便と言っても差し支えないのかもしれませんね。
かつ、柳田国男の言うところの霊魂が山へ行くという信仰にも根ざしたものかもしれません。
そんな意味で、琉球と言う海洋民族が「ニライカナイ信仰」を持つ点と対峙しながら似通う精神性を感じないわけでもありません。
そして、そんな土壌が、北陸から信濃そして群馬から北関東へと広がっています。(親鸞は一時期北関東にいたはずです。)
独り言(かって沖縄の知人が私の発想を”他力本願の地にいる考え方”と称しました。ふと思うのです。救われるならば何でもいいじゃん。あんたの救いこそ何なんだろうなと聞きそびれたことが残念ではあります。)


「阿弥陀堂だより」のあらすじ。
東京に住む孝夫と美智子の夫婦。夫は新人賞を受賞するも、それ以降なかなか日の目を見ない売れない小説家。
妻は大学病院で最先端医療に携わる有能な医者だった。
あるとき、妻、美智子はパニック障害という原因不明の心の病にかかる。仕事にも、都会の生活にも疲れていた二人はそれをきっかけに、孝夫の故郷、信州に移り住むことを決意する。
山里の美しい村に帰った二人は、96歳の老婆おうめを訪ねる。
彼女は、阿弥陀堂という、村の死者が祭られたお堂に暮らしていた。
何度かおうめのところに通ううちに孝夫は、喋ることが出来ない難病を抱える少女、小百合に出会う。
彼女は村の広報誌に「阿弥陀堂だより」というコラムを連載していた。
それは、おうめが日々思ったことを小百合が書きとめ、まとめているものであった。
それまで無医村であったこの村で、美智子は診療所を開く。
おうめや小百合、そして村の人々の診察を通して、医者としての自信と責任を取り戻してくる。
一方孝夫は、中学校の時の恩師、幸田重長がガンに冒されながらも死期を潔く迎えようとしていることを知る。
幸田老人と彼に寄り添う妻のヨネの生きる姿に、深い感銘を受ける孝夫。
二人は村の人々とふれあい、自然に抱かれて暮らしていくうちに、いつしか生きる喜びを取り戻していくのであった。
そんな時、小百合の病状が悪化していることが判明する。すぐに手術をしなければ命が危ないという事態に、美智子は彼女の手術担当医として再びメスを握ることを決意するのであった。

「生き方」の映画です。
「生き方」の映画に浄土への導き手の阿弥陀仏を守る96歳のオバァさん(北林谷栄)を配置しています。
このおうめばぁさんの言葉です。
「畑にはなんでも植えてあります。
ナス、キュぅり、トマト、カボチャ、スイカ・・・。
そのとき体が欲しがるようなものを好きなように食べてきました。
質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら、それはお金がなかったからできたのです。
貧乏はありがたいことです。
雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。
山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。
春、夏、秋、冬。
はっきりしてきた山と里との境が少しづつ消えていき、1年がめぐります。
人の一生と同じなのだと。この歳にしてしみじみ気がつきました。
お盆になると、亡くなった人たちが「阿弥陀堂」にたくさんやってきます。
迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。
話しているうちに自分がこの世のものなのか、あの世のものなのかわからなくなります。
もう少し若かったころはこんなことはなかったのです。
怖くはありません。
夢のようでこのまま醒めなければいいと思ったりします。
映画「異人たちの夏」でも当たり前に亡くなった人たちが出てきます。
還暦になり、親の死をみとると「死」を間近に感じはじめました。
そうすると、逆に「死ぬ」までの生き方が問題となるのです。
残された「生」の時間の過ごし方というよりも、そんな意味で「生き様」の確認をし合いました。
それは、「死を迎えるまで互いに、かくかく云々・・・これでいいね」という確認書を交わしたようなもんです。
貧乏とは言いません。
しかし、裕福とは言えません。
しかし、仕合わせとはいえるかもしれない。
歩いてきた足跡の数しか刻めない人生ならば、これからもそう生きていくしかないということでもあるんですよね。
阿弥陀堂を後にしながら、こんなことを語り合った小さな旅の寄り道のお話でした。
阿弥陀堂だより公式ページ
嫁はんが、えらく気に入り何度も何度もDVDを借りてきて見ていました。
茨城県の笠間から栃木県の益子へと高速を使わず一般道を走っていた時のことです。
「あれ、阿弥陀堂でないか?」


車を路肩に止め、近づいてみることにしました。


そう近くない昔に街道沿いに置いてあったであろう野仏や地蔵が「堂」への杣(そま)のような道にひそやかに祭られていました。

彼岸花が赤い帯のように一帯を取り囲んでいます。

程よく刈り込まれて手入れされた様子に、今は仏となった人々への畏敬と祈りを感じました。
阿弥陀とは、生きとし生けるものを見守る仏さまではありません。
死者を浄土に導く役割の仏様なのです。
そして、浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀如来が本尊として祭られているのです。
だから、お堂の横には墓石があり裏の後背地に相当数の墓が認められました。
逝ってしまった人たちが、寄り添って密やかに居る場所なのです。
本能的に陰の気がかんじられたような気がしました。
早々に立ち去りましたが、祈りと別の興味で近づくものには、やはりある種の拒否感が生ずるのは当たり前のことかもしれませんね。
この項、少し長く書きたいと思っています。
北関東へ夫婦で向かいました。
往復16時間は、車内で二人きりです。
今年還暦を二人で迎えています。
「いままで」と「これから」を語り合うには充分な時間とタイミングでもありました。
その話に行き着くために、「阿弥陀堂だより」という映画の紹介をさせてください。
そしてそのまえに、阿弥陀堂の阿弥陀如来について基礎知識をご紹介します。
阿弥陀如来は仏教の初期の頃から重要な役割を担ってきた仏で、人々が死後行くという西方極楽浄土の教主です。
阿弥陀は仏になる前は法蔵菩薩という名前でしたが、その法蔵は修行中に誓いを立てます。
それは「未来永遠にわたってあらゆる人々が浄土に行けるようにします。
「それができなかったら私は仏になりません」という内容のものでした。
これが阿弥陀の本願と呼ばれるもので、その中に「どのような人でも心から極楽浄土に行きたいと願って念仏を唱えれば必ず浄土に行ける」というものがありました。
これを重視したのが浄土宗・浄土真宗で、阿弥陀のその心を信じ、極楽往生を願って「南無阿弥陀仏」と唱えれば必ず極楽へ行けると説いたのです。
ここに「南無阿弥陀仏」という念仏が生まれました。
つまり阿弥陀仏にすがって極楽へ行きましょうということで、これを他力本願といいます。
(つまり、他力本願というのは自分では何もしないでいいというのではなく、最低でも阿弥陀にすがる気持ちがないと成立しません。)
つまり、ぶれない信念の誓いを持つということなのでしょうか?
この考え方は庶民から大変歓迎されました。
本来の仏教の思想というのは生病老死に象徴される生きとし生ける者の苦悩をどのようにしたら克服できるかということを思索することにあります。
この為仏道に入った人々は色々な修行をして悟りを開き、解脱・即身成仏の境地に至るのです。
しかし、そのようなことは普段の社会的生活とはどうしても両立しません。
また仏教には色々な戒律があった訳ですが、それもとても庶民には守れるものではありませんでした。
そのため、それまでの仏教では、庶民は永久に救われなかったのです。
「救い」のための方便と言っても差し支えないのかもしれませんね。
かつ、柳田国男の言うところの霊魂が山へ行くという信仰にも根ざしたものかもしれません。
そんな意味で、琉球と言う海洋民族が「ニライカナイ信仰」を持つ点と対峙しながら似通う精神性を感じないわけでもありません。
そして、そんな土壌が、北陸から信濃そして群馬から北関東へと広がっています。(親鸞は一時期北関東にいたはずです。)
独り言(かって沖縄の知人が私の発想を”他力本願の地にいる考え方”と称しました。ふと思うのです。救われるならば何でもいいじゃん。あんたの救いこそ何なんだろうなと聞きそびれたことが残念ではあります。)


「阿弥陀堂だより」のあらすじ。
東京に住む孝夫と美智子の夫婦。夫は新人賞を受賞するも、それ以降なかなか日の目を見ない売れない小説家。
妻は大学病院で最先端医療に携わる有能な医者だった。
あるとき、妻、美智子はパニック障害という原因不明の心の病にかかる。仕事にも、都会の生活にも疲れていた二人はそれをきっかけに、孝夫の故郷、信州に移り住むことを決意する。
山里の美しい村に帰った二人は、96歳の老婆おうめを訪ねる。
彼女は、阿弥陀堂という、村の死者が祭られたお堂に暮らしていた。
何度かおうめのところに通ううちに孝夫は、喋ることが出来ない難病を抱える少女、小百合に出会う。
彼女は村の広報誌に「阿弥陀堂だより」というコラムを連載していた。
それは、おうめが日々思ったことを小百合が書きとめ、まとめているものであった。
それまで無医村であったこの村で、美智子は診療所を開く。
おうめや小百合、そして村の人々の診察を通して、医者としての自信と責任を取り戻してくる。
一方孝夫は、中学校の時の恩師、幸田重長がガンに冒されながらも死期を潔く迎えようとしていることを知る。
幸田老人と彼に寄り添う妻のヨネの生きる姿に、深い感銘を受ける孝夫。
二人は村の人々とふれあい、自然に抱かれて暮らしていくうちに、いつしか生きる喜びを取り戻していくのであった。
そんな時、小百合の病状が悪化していることが判明する。すぐに手術をしなければ命が危ないという事態に、美智子は彼女の手術担当医として再びメスを握ることを決意するのであった。

「生き方」の映画です。
「生き方」の映画に浄土への導き手の阿弥陀仏を守る96歳のオバァさん(北林谷栄)を配置しています。
このおうめばぁさんの言葉です。
「畑にはなんでも植えてあります。
ナス、キュぅり、トマト、カボチャ、スイカ・・・。
そのとき体が欲しがるようなものを好きなように食べてきました。
質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら、それはお金がなかったからできたのです。
貧乏はありがたいことです。
雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。
山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。
春、夏、秋、冬。
はっきりしてきた山と里との境が少しづつ消えていき、1年がめぐります。
人の一生と同じなのだと。この歳にしてしみじみ気がつきました。
お盆になると、亡くなった人たちが「阿弥陀堂」にたくさんやってきます。
迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。
話しているうちに自分がこの世のものなのか、あの世のものなのかわからなくなります。
もう少し若かったころはこんなことはなかったのです。
怖くはありません。
夢のようでこのまま醒めなければいいと思ったりします。
映画「異人たちの夏」でも当たり前に亡くなった人たちが出てきます。
還暦になり、親の死をみとると「死」を間近に感じはじめました。
そうすると、逆に「死ぬ」までの生き方が問題となるのです。
残された「生」の時間の過ごし方というよりも、そんな意味で「生き様」の確認をし合いました。
それは、「死を迎えるまで互いに、かくかく云々・・・これでいいね」という確認書を交わしたようなもんです。
貧乏とは言いません。
しかし、裕福とは言えません。
しかし、仕合わせとはいえるかもしれない。
歩いてきた足跡の数しか刻めない人生ならば、これからもそう生きていくしかないということでもあるんですよね。
阿弥陀堂を後にしながら、こんなことを語り合った小さな旅の寄り道のお話でした。
阿弥陀堂だより公式ページ
Posted by yo1 at 17:47│Comments(0)
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