2012年10月06日
腰痛の友その2
少し長引いている。
これはこれで、ぐうたらの言い訳にもなる。
今回読んでいるものは、嫁はんが友人たちから貸してもらった本ばかりです。
わたしに選択肢などと言うものは、端からありません。
あるものをランダムに読み散らかす。

「たまゆら」新潮社:あさのあつこ
今にして思えば出張中、魅惑(ひき)き寄せられるように「阿弥陀堂」へと近づいて行ったような・・・・。
「薄紅天女」の随所に不可知領域の件(くだり)がでてきます。
そう、不可知とは「あるか、ないか判らない」ということで、「あるともないとも言える」ともいえることです。
典型的な命題、「神はいるか?」。
私なりの実感・実体験でいうと、「神の正体」「幽霊(怨霊)の正体」と言うことになります。
沖縄の知人に言われた、「あんた、そこそこ科学的な知識もあるのに霊を信じてるのか?・・・わからん」。
かれは、塾の教師である。
最近のブログ記事に書いた「柳田国男の言うところの霊魂が山へ行くという信仰」、これって「姥捨て」もそうだと言えると思うのです。
「阿弥陀堂便り」のお梅ばぁさんの言葉
「雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。 山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。」
仏教で言う「彼岸と此岸(しがん)」に近い境界線があることを示唆しているのではないでしょうか?
此岸(しがん)とは、私たちの住んでいる世界の事で、欲や煩悩にまみれ、さまざまな苦悩に堪(たえ)え忍ばねばならない世界で、「忍土」と言う意味で「サハー」というそうです。
世間の事を俗に「しゃば」というのは、ここから来ているそうです。
読み終えた本の話にもどりましょうね。
人が、人を好きになるということは理屈や打算・計算ぬきであるべきだと思うのです。
赤い糸で結ばれた人に出会う確率は、一体に我々の中でどの程度の確率なんだろう?
おそらく、かなり低くしかも初婚で出会う確率もさらに低いのかな?
この物語は、この此岸(しがん)という「忍土」で、それでも運命の人に出会ってしまった人々が、人の世と「山」に象徴されるあの世の狭間で「阿弥陀堂」のように境界線をなす場所で紡ぎ出していくお話なのかなと思いました。
其々の自分の体験や知識からしか、割り出せない読後感をもたらす物語だと思いました。
この項の最後に、「神はいるか?霊はいるか?」
いるともいないとも答えられる自分がいます。
はっきり言えることは、それらを私たち人間が感じる「暑い・寒い」や「しびれる」や「風」という人ならだれもが感じる五感を通じて感じることができるからです。
六感の領域を五感でそうだと感じるためには、それを教えてくれる人がいれば簡単です。
多くの人は、その感覚を知らないというか遥か昔に忘れてしまっているだけだと考えています。
だから、それが「神」とか「霊」だと断言できませんが人が「想う」と言う行為には「怒り」や「悲しみ」や「喜び」という感情があります。
それって、人によって感じ方が違うのだけれど「感じ」ますよね。
それは、雰囲気という「気」だと考えてみましょうね。
「気」がエネルギーだとするならば・・・・・。
ドラゴンボールの「かめはめ波」みたいに人の中から発射されることは・・・・・あり。
だとすると、「想念」とはエネルギーとして認識するとその先にある世界が広がるのです。
そこで、はじめて「彼岸と此岸(しがん)」は繋がるのですよね?
その感覚を自身で認識できない人には信じることも確認することも出来るはずもないことを理解しています。
知らないままに登場人物達は、この境界を超えるのです。
赤い糸に出会ってしまったばかりに・・・・。
そんな物語だと思いました。
いま、働けないのですが1日一仕事とパソコンに向かい座っています。
仕事にかかる前に、このブログ軽く仕上げるつもりでしたが…・重くなって。
一旦、ベッドに倒れます。
なんせ、今晩は温泉の風呂掃除で来週にはまた2000キロ近くの搬出出張が控えています。
ぜったい治さなければいけないのです。
詳しくは、言えないのですが「阿弥陀堂」はまずかったなと思う自分がいます。
なんか意味があるんだろうと、倒れてから読む本読む本の啓示に参っている自分がいます。
「変ですか?」
「変なんでしょうね」
ぁ、精神状態は今のところ「まとも」ですよ~。
心の中の何分の一しかでしか考えていませんもの。
玉響(たまゆら)と書きます、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。それは「ほんのしばらく」とか「つかのま」「かすかに」という意味だそうです。
ちなみに。「たまゆら」と言う題名の小説は、川畑康成など多くあります。
わたしには、「たまゆら」休んで考えてみたらというメッセージなのかも・・・・・。
このあとは、「ぬばたま」を読む予定。
これはこれで、ぐうたらの言い訳にもなる。
今回読んでいるものは、嫁はんが友人たちから貸してもらった本ばかりです。
わたしに選択肢などと言うものは、端からありません。
あるものをランダムに読み散らかす。

「たまゆら」新潮社:あさのあつこ
今にして思えば出張中、魅惑(ひき)き寄せられるように「阿弥陀堂」へと近づいて行ったような・・・・。
「薄紅天女」の随所に不可知領域の件(くだり)がでてきます。
そう、不可知とは「あるか、ないか判らない」ということで、「あるともないとも言える」ともいえることです。
典型的な命題、「神はいるか?」。
私なりの実感・実体験でいうと、「神の正体」「幽霊(怨霊)の正体」と言うことになります。
沖縄の知人に言われた、「あんた、そこそこ科学的な知識もあるのに霊を信じてるのか?・・・わからん」。
かれは、塾の教師である。
最近のブログ記事に書いた「柳田国男の言うところの霊魂が山へ行くという信仰」、これって「姥捨て」もそうだと言えると思うのです。
「阿弥陀堂便り」のお梅ばぁさんの言葉
「雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。 山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。」
仏教で言う「彼岸と此岸(しがん)」に近い境界線があることを示唆しているのではないでしょうか?
此岸(しがん)とは、私たちの住んでいる世界の事で、欲や煩悩にまみれ、さまざまな苦悩に堪(たえ)え忍ばねばならない世界で、「忍土」と言う意味で「サハー」というそうです。
世間の事を俗に「しゃば」というのは、ここから来ているそうです。
読み終えた本の話にもどりましょうね。
人が、人を好きになるということは理屈や打算・計算ぬきであるべきだと思うのです。
赤い糸で結ばれた人に出会う確率は、一体に我々の中でどの程度の確率なんだろう?
おそらく、かなり低くしかも初婚で出会う確率もさらに低いのかな?
この物語は、この此岸(しがん)という「忍土」で、それでも運命の人に出会ってしまった人々が、人の世と「山」に象徴されるあの世の狭間で「阿弥陀堂」のように境界線をなす場所で紡ぎ出していくお話なのかなと思いました。
其々の自分の体験や知識からしか、割り出せない読後感をもたらす物語だと思いました。
この項の最後に、「神はいるか?霊はいるか?」
いるともいないとも答えられる自分がいます。
はっきり言えることは、それらを私たち人間が感じる「暑い・寒い」や「しびれる」や「風」という人ならだれもが感じる五感を通じて感じることができるからです。
六感の領域を五感でそうだと感じるためには、それを教えてくれる人がいれば簡単です。
多くの人は、その感覚を知らないというか遥か昔に忘れてしまっているだけだと考えています。
だから、それが「神」とか「霊」だと断言できませんが人が「想う」と言う行為には「怒り」や「悲しみ」や「喜び」という感情があります。
それって、人によって感じ方が違うのだけれど「感じ」ますよね。
それは、雰囲気という「気」だと考えてみましょうね。
「気」がエネルギーだとするならば・・・・・。
ドラゴンボールの「かめはめ波」みたいに人の中から発射されることは・・・・・あり。
だとすると、「想念」とはエネルギーとして認識するとその先にある世界が広がるのです。
そこで、はじめて「彼岸と此岸(しがん)」は繋がるのですよね?
その感覚を自身で認識できない人には信じることも確認することも出来るはずもないことを理解しています。
知らないままに登場人物達は、この境界を超えるのです。
赤い糸に出会ってしまったばかりに・・・・。
そんな物語だと思いました。
いま、働けないのですが1日一仕事とパソコンに向かい座っています。
仕事にかかる前に、このブログ軽く仕上げるつもりでしたが…・重くなって。
一旦、ベッドに倒れます。
なんせ、今晩は温泉の風呂掃除で来週にはまた2000キロ近くの搬出出張が控えています。
ぜったい治さなければいけないのです。
詳しくは、言えないのですが「阿弥陀堂」はまずかったなと思う自分がいます。
なんか意味があるんだろうと、倒れてから読む本読む本の啓示に参っている自分がいます。
「変ですか?」
「変なんでしょうね」
ぁ、精神状態は今のところ「まとも」ですよ~。
心の中の何分の一しかでしか考えていませんもの。
玉響(たまゆら)と書きます、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。それは「ほんのしばらく」とか「つかのま」「かすかに」という意味だそうです。
ちなみに。「たまゆら」と言う題名の小説は、川畑康成など多くあります。
わたしには、「たまゆら」休んで考えてみたらというメッセージなのかも・・・・・。
このあとは、「ぬばたま」を読む予定。
Posted by yo1 at 10:23│Comments(0)
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