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2012年10月25日

かっこいいひとたち。ファイナル

かっこいいって、自分には賛辞の言葉。

畢竟(ひっきょう)、これをもって嚆矢(こうし)となす。

つまりです、かっこいい生き方って艶付けて(博多弁ですぅ。)いきがる事ではなく「生き方」の問題。

9月決算なので、税務会計事務所から計理士さんが来ていました。

なんか、節税相談が最後に人生相談というか身内に障害のある甥っ子がいて親が「なんでこんなかわいそうな子が私たちに生まれたの?」と子供のことよりわが身のの不幸を嘆いているというはなし。(話を誘導してないのになんでそうなったかわからない。ほんと、彼女はこの秘密ブログは知らないのに・・・・。)

・・・・・・・・4分の一の奇跡の話をしました。

興ってしまったことをいつまでも嘆くより、それをどう受け止めどう生きていくかということも大切だと思う。

其処が納得できるかできないか。

障害・病気など誰も望むことではないのですが、そのことは生物が生きていくうえで体内にプログラミングされた「命」をつなぐ「知恵」で誰にでも起こることで、そのことの上に成り立っている以上現実をありのまま受け止めていく作業がいるんだろうなぁ。

語弊がある言葉ですが、「かわいそう」と言う目線で対峙しないことも自分に言い聞かせている。

あくまでも、対等の目線。











5本の動画に共通するものを私が感じたならば「まなざし」と言う言葉かもしれません。

興った過去は変えられないが、未来は変えられる。

「まなざし」とは優しい言葉なんだけれど、強い「意志」。

奇跡とはそんな時に起こり、それは奇跡ではなく必然なのか?

宗教ではないが、それが持っているものを強く感じました。

基本的には、私は神秘主義者ではありません。

しかし、不可知論者です。

「あるかないかわからないもの」に対しては、素直に「わからない」、否定も肯定もできません。

何故ならどちらかに偏ると、そこに停滞を感じるからです。

だからこのお話の「奇跡」を奇跡ではなく人の「命」の可能性と捉えたいのです。

この人たちの「まなざし」のなかに「救い」を感じてしまうのです。

わたしにとって、やはり「かっこいひとたち」なのです。

3つの記事は、それぞれ私が感じている「かっこいいひとたち」のポジションを変えた記事になりました。

その奥で、私が何を感じ何を考えていたか?

わたしにとっても、逝く時は必ず必ず来ます。

生活することに忙しいのですが、その私が逝く瞬間に何を思って逝くことができるか?

そのために、今を生きる・降りていくことを大切にしたい。

オトンが亡くなる直前、彼はじつは神も仏も否定した。

あれほど、高邁な知識と見識を示したにもかかわらずおかんにすがって「一緒に死んでくれ」と懇願した。

逝くことへの恐れが、隠していた心の奥底を洗いざらいさらけ出させてしまった。

人とはどういうものか?

「まなざし」と言う言葉が、大切に想えます。

4分の一の奇跡の難病の子のように、生きてきたことへの自分の体への感謝を確信をもって・納得して逝くことができるならば・逝けるならばそれは何にも代えがたいことなのかもしれません。

近々に逝く予感はしないのだけれど・・・・・。

あるいは、近いのかな?

癌の恐れがある様で、要精密検査です。

11月になってひと段落したら、病院行ってきます。

おしまい。









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Posted by yo1 at 23:15│Comments(0)日記
 
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