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2012年05月02日

「竹取物語」と「とはずがたり」その2

いま、あさのあつこさんの「弥勒の月」を読み終えました。

今朝、書き始めたこの記事はちょっとテストと言うか遊んでいます。

小説を読みながら、小説の中の気に入ったフレーズから連想する事柄をネット検索で知識を深め、フレーズ感想文を書きこんでいくというまあ「お遊び」です。

仕事柄、人の遊んでいるときはお仕事で、それでもGWなので自分なりに楽しもうかな。

孫が、字をもう少しで覚えそうなのでこの後は「おやゆび姫」の完訳に専念します。

そのための、脳内トレーニング。

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「弥勒菩薩」が、未来の救済仏ならば,「十一面観音像」は密教系の観音さまだそうです。

密教は即身成仏・現世利益(げんせりやく)に基ずく教義が中心と理解しています。

つまり、生きてるうちの御利益が最大限ついてくる。

仏師の彫刻家としての腕の見せどころ満載の観音様と言えるのでしょうかね。

「竹取物語」と「とはずがたり」その2

「竹取物語」と「とはずがたり」その2

滋賀県高月町向源寺の十一面観音(国宝)がもっとも有名です。

背面に回ると驚愕の面象が・・・・。

「竹取物語」と「とはずがたり」その2

暴悪大笑面と言います。

なかなか、感動します。

悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔との説明です。

そういえば、人ってあまりにも哀しいことや怒りを持つと笑ってしまう事ってないですか?

「弥勒の月」文中に、「・・・・人は薄皮の様なものだ。抱え込んだ情念に皮を被せて、かろうじて隠しているに過ぎない。ひょいとしたはずみに、皮が破れて生(き)の姿が浮かぶ。皮を通して抱え持った情の形が浮かび上がる」という一節があります。

十一面観音像は、人が見せる情念の弱さを,看破し救済へと導く仏様なのかもしれません。

あさのあつこさんの「弥勒の月」からつながっていく「夜叉桜」「木練柿(こねりがき)」は夜叉の心と修羅の林を抜けたところに人としての生き様が浮かび上がってくるというような底の流れを保ちつつ、クリスティのようなどんでん返しの時代劇ミステリーの筋立てになっているところが魅力なのかなあ?

この本を読みながら、しきりに仏像や「生成(なまなり)」という能面が心に浮かんでくる不思議を感じたのですが・・・・・。

度々書いてきていますが、「菩薩」とはブッダをさす言葉でなく、ブッダの悟りの会得をめざすものであり、観音はその中で衆生の救済を行う菩薩の化身なのです。

補書として、1975年12月に新潮社から出版された『十一面観音巡礼』を文庫化したもので、白洲正子さんの著書からの引用を紹介させていただきます。

長いんですが、ご一読の価値は絶対あると思います。


以下抜粋です。

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昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。

渡岸寺の観音のことは度々書いているので、ここにくり返すつもりはない。それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。

特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当り前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。

十一面というのは、慈悲相、瞋怒相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。

印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。

 仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。

十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。

渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。

ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐しい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。

見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。

 暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。

この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。

大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。

暴悪大笑面については「悪い行いの人を笑い声をあげ、さげすむ」などといった説明もされるが、どうも信用できない。

室生寺の十一面観音にしても、その「暴悪大笑面」は、たしかに悪魔の顔をしているように思う。

してみると、十一面観音は、いわぱ天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。

そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。

平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。

この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。


 一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。

十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。

一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。

 仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのをみると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。

源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。

渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。

そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。

その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。

ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。

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何なんでしょう?

不思議に「弥勒の月」が表現する世界と白洲が語る十一面観音評が、寄り添う感覚があるのですが・・・・。

第二部はここで終わらせます。

これが、竹取物語に続く自信はありません。

何故なら、明日に朝が来て心がまた入れ替わるかもしれないから。

つづく。




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Posted by yo1 at 23:14│Comments(0)語り
 
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