2012年05月14日
おもろ
ゑ け 上がる三日月や
ゑ け 神ぎや金真弓
ゑ け 上がる赤星や
ゑ け 神ぎや金細矢(かなままき)
ゑ け 上がる群(ぼ)れ星や
ゑ け 神が差し櫛(くせ)
ゑ け あがる虹(のち)雲は
ゑ け かみが愛(まな)きゝ帯
ゑけ、上がる三日月は、
ゑけ、神の金真弓である。
ゑけ、上がる赤星は、
ゑけ、神の金細矢である。
ゑけ、上がる群れ星は、
ゑけ、神の差し櫛である。
ゑけ、上がる虹雲は、
ゑけ、神の大切にしている美しい帯である。
(外間守善校注『おもろさうし』上巻、岩波文庫)
斉藤孝著「声に出し読みたい日本語」の中に収録されている「おもろさうし」の紹介分です。
文中、著者は述べています。
「おもろ」とは古代語では「口にかけて、唱える・宣べる」と言う意味で、「うむい」が変化した言葉だと。
「うむい」とは心に秘めるものではなく、言の葉として口にするものだったに違いないと思うようになりました。
この事を知ってから、ゆいれーるに乗るたびに「おもろまち」とアナウンスされると、この事を思いだします。
沖縄学の父と言われる伊波普猷(いはふゆう)の本質とはまさに、この「おもろそうし」の中に琉球と言うアイデンテティを見出すことにあったと多くの方が述べられています。
12世紀から17世紀、薩摩の侵攻を受ける間での、海洋国家としての琉球。
海洋民族としてのスケールの大きな詩が、謳われているなと感じています。
夜の海上を漕ぐ船人たちも、漆黒の空に神の弓矢を、神の櫛を、
帯を見て、賛嘆する。その眼に映じている三日月や宵の明星(あか
ぼし)の姿が、ありのままに見えないのではない。横雲は横雲--し
かし、同時に、かれらの眼は、そこに神の愛用の美しい帯を現に見
てもいる。その背後の空に、かれらが、頭に刺し櫛、腰に帯をし、
左右の手に弓と矢を持つ、巨大な神の像を見たかどうか知らないが、
現に神の身に添うそれらの品々は、空に懸っている。
「物を物そのものとしてみ、また、信仰の上でのイメージにおいてみる。二重構造
の視覚、それは原始以来の眼であった。夜の視覚でもあった。」(益田勝実「幻視」)
このような視覚のことを、益田氏は「幻視」と呼んでいます。
私たちの生活には、日常と非日常があります。日常の視覚に、非日常の視覚を重ねること、これが幻視なのです。
満月と新月の夜に、配信される「奄美・沖縄エッセイ」というメールマガジンの一節を引用させていただきました。
琉歌のなかにも、壮大なスケールの歌があります。
ウチドゥマイ
マサグ
ティダドゥ
マギラシュル
ウチチ
マギラシュル
ハマヌマサグ
宇地泊の真砂子は
太陽を紛らす
月を紛らす
浜の真砂子は
<大意>
宇地泊の浜の砂は白く
昼は曇り空でも
まるで日が照っているように
人の目を疑わせる
夜は暗夜でも
まるで月夜のように
人の目を疑わせる
浜の白い真砂
その美しさよ
「おもろ」⇔「うむい」と言う語韻のなんとすばらしいことよ。
この琉歌を意地でも解明した方の記事を読んで、そのスケールの大きさを沖縄は取り戻しつつあるのだと思うのですが・・・・。
孤島に咲き乱れるひまわりの向こうの大海原に似て。
ゑ け 神ぎや金真弓
ゑ け 上がる赤星や
ゑ け 神ぎや金細矢(かなままき)
ゑ け 上がる群(ぼ)れ星や
ゑ け 神が差し櫛(くせ)
ゑ け あがる虹(のち)雲は
ゑ け かみが愛(まな)きゝ帯
ゑけ、上がる三日月は、
ゑけ、神の金真弓である。
ゑけ、上がる赤星は、
ゑけ、神の金細矢である。
ゑけ、上がる群れ星は、
ゑけ、神の差し櫛である。
ゑけ、上がる虹雲は、
ゑけ、神の大切にしている美しい帯である。
(外間守善校注『おもろさうし』上巻、岩波文庫)
斉藤孝著「声に出し読みたい日本語」の中に収録されている「おもろさうし」の紹介分です。
文中、著者は述べています。
「おもろ」とは古代語では「口にかけて、唱える・宣べる」と言う意味で、「うむい」が変化した言葉だと。
「うむい」とは心に秘めるものではなく、言の葉として口にするものだったに違いないと思うようになりました。
この事を知ってから、ゆいれーるに乗るたびに「おもろまち」とアナウンスされると、この事を思いだします。
沖縄学の父と言われる伊波普猷(いはふゆう)の本質とはまさに、この「おもろそうし」の中に琉球と言うアイデンテティを見出すことにあったと多くの方が述べられています。
12世紀から17世紀、薩摩の侵攻を受ける間での、海洋国家としての琉球。
海洋民族としてのスケールの大きな詩が、謳われているなと感じています。
夜の海上を漕ぐ船人たちも、漆黒の空に神の弓矢を、神の櫛を、
帯を見て、賛嘆する。その眼に映じている三日月や宵の明星(あか
ぼし)の姿が、ありのままに見えないのではない。横雲は横雲--し
かし、同時に、かれらの眼は、そこに神の愛用の美しい帯を現に見
てもいる。その背後の空に、かれらが、頭に刺し櫛、腰に帯をし、
左右の手に弓と矢を持つ、巨大な神の像を見たかどうか知らないが、
現に神の身に添うそれらの品々は、空に懸っている。
「物を物そのものとしてみ、また、信仰の上でのイメージにおいてみる。二重構造
の視覚、それは原始以来の眼であった。夜の視覚でもあった。」(益田勝実「幻視」)
このような視覚のことを、益田氏は「幻視」と呼んでいます。
私たちの生活には、日常と非日常があります。日常の視覚に、非日常の視覚を重ねること、これが幻視なのです。
満月と新月の夜に、配信される「奄美・沖縄エッセイ」というメールマガジンの一節を引用させていただきました。
琉歌のなかにも、壮大なスケールの歌があります。
ウチドゥマイ
マサグ
ティダドゥ
マギラシュル
ウチチ
マギラシュル
ハマヌマサグ
宇地泊の真砂子は
太陽を紛らす
月を紛らす
浜の真砂子は
<大意>
宇地泊の浜の砂は白く
昼は曇り空でも
まるで日が照っているように
人の目を疑わせる
夜は暗夜でも
まるで月夜のように
人の目を疑わせる
浜の白い真砂
その美しさよ
「おもろ」⇔「うむい」と言う語韻のなんとすばらしいことよ。
この琉歌を意地でも解明した方の記事を読んで、そのスケールの大きさを沖縄は取り戻しつつあるのだと思うのですが・・・・。
孤島に咲き乱れるひまわりの向こうの大海原に似て。
Posted by yo1 at 01:15│Comments(2)
│語り
この記事へのコメント
この歌碑を建立したのは
宇地泊自治会の人たちであり
歌碑に込められた「うむい」の深さを知って
驚きました
宇地泊自治会の人たちであり
歌碑に込められた「うむい」の深さを知って
驚きました
Posted by madan at 2012年05月14日 21:06
な~んかね、自分の生まれた地を愛し文化を誇りに思う。
伝わってくるものがあるんだわ。
沖縄の人って、自分の故郷ほんとに好きなんだなって思うことがある。
わたしも、私のふる里、大好きです。
だから、最後に還るところなんだけれど、この異郷の地に住みたいと思った。
住む以上は、知りたいと思った。
こんど、訪沖したら物件探しだと思う。
人も自然もみんな好きになれたらいいなと思う。
伝わってくるものがあるんだわ。
沖縄の人って、自分の故郷ほんとに好きなんだなって思うことがある。
わたしも、私のふる里、大好きです。
だから、最後に還るところなんだけれど、この異郷の地に住みたいと思った。
住む以上は、知りたいと思った。
こんど、訪沖したら物件探しだと思う。
人も自然もみんな好きになれたらいいなと思う。
Posted by yo1
at 2012年05月14日 23:55
