2012年06月19日
だれもが、世界の中心で語ってる・・・・。
カバーも無くなり、背表紙も薄汚れてしまった1冊の本があります。
昨夜来、多分16年ぶりに読み返してみました。

沢木耕太郎著 「壇」
作家 壇一雄の妻、壇ヨソ子が人間「壇」と歩んだ人生を振り返る自伝風の読み物です。
この本は、「火宅の人」の登場人物、桂ヨリ子のモデル、つまり壇一雄の妻”壇ヨソ子”が小説「火宅の人」に記された部分と実際の出来事を(なれそめ)から(その死)までを回想でつづる形式の構成です。
これが、小説と言えるのかノンフィクションと言うのかよくわかりません。
ひとは、物を書くとき・語るとき、おしなべて自分を世界の中心に置いて語ります。
小説「火宅の人」は壇一雄と言う作家を「世界の中心に置いた自伝的私小説」と言うならば、書かれた立場の人間が「世界の中心に立って」書かれた小説がこの「壇」なのです
作者の沢木は、最後まで第三者的にしか現れません。
沢木と言う作者は「僕はこう思うとか、彼はこう思った」ではなく、妻ヨソ子がその時、こう思った、こう言ったと表現している面白さを感じました。
フィクションと言うより、ノンフィクション的な感覚が濃く、ベースになっている「壇」の私小説「火宅の人」があまりにも鮮烈なためリアリティが浮き立って感じられます。
小説は、登場人物の性格や特徴をデフォルメ(誇大視)させることにより、物語として成立させます。
代表作と言われる「律子 その愛」「律子 その死」、そして「火宅の人」に彼の次妻として、愛人のもとへ去られた妻として表れされる人の、まさに同じ時を別の視点から捉え時を共有した人の話なのです。
両者の同じ事由に対する観点は、対立軸となり壇の「死」へと続いていくかに見えます。
しかし、何時しか妻の「壇」への想いが、互いの対立したはずの世界の中心が「愛」というテーマで集合していく過程は彼女が深いところにあるものを探り当てた感じがするのです。
そのためにどうしても必要だったのは、「時間」だったのだと思いました。
友人は、それを「記憶の合理化」と言いました。(フクシマからの記事)
「壇」の著者は最後に妻ヨソ子に言わせます。
「壇」より抜粋。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>「もし、あなたが壇ソヨ子ではなく、全く無縁の1読者だったら(火宅の人)の桂ヨリ子をどうおもいますか?」
>それは、難しい質問だった。私は壇ソヨ子であり桂ヨリ子のモデルである。全くの第三者として判断するのは不可能だ。そこを、あえてとその方(沢木)はおっしゃる。
>「不幸な人だなと、思うでしょう」
>するとその方はさらに畳み掛けてきた。では実際の壇ヨソ子はどんな人でしたか。
>それも難しい問題だ。しかし答えは意外と簡単に浮かんできた。
>「貧しい女でした」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、でも、と私は続けた。
>「貧しかったけど、不幸ではありませんでした」
>最後にその方が、お尋ねになった。将来「火宅の人」を読み返すことはあるだろうか、と。
>私は即座に答えた。
>「死ぬまで読むことはないでしょう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それはそうだろう。
実際に傷つき、書かれて傷つき、読まされて傷ついたのだから。
3度も同じことで傷つけられたら、たいがいへたる。
早い時期に、「ことを起こす」ことを予見したかのような遺言じみた手紙が妻のもとに送られていたそうである。
しかし、その時は渦中の事に気をとられ、壇という夫が妻に抱いていた想いの記述部分には気が付かなかったそうである。
人は互いに、生きている間の時間軸もずれていっていしまうものなのであろうか。
そして同軸ではなくとも世界は丸いのだから、どの軸も中心へと向かっているのではないだろうか?
だから、誰もが世界の中心で語るのである。
・・・・・・愛と言う記憶の中では異軸であろうとも。
部分的に集合できれば「上等」。
100万本のバラには100万本のバラの軸があり、すべてが世界の中心へとつながり、すべてが違う空へと向かっていくように・・・。
向かう先は自由・無限。
つながっている先はたったひとつ。
宇宙は「そら」という。
♪ We are the whorld,we are the chirdren ♪
著者が狙ったものは1つではないだろう。
そのいくつかに何時しか引き込まれていった。
彼が狙ったものも、読みどころの一つなのかもしれません。
いやぁ、最後に来て実に真面目な文章かいたなぁ。
昨夜来、多分16年ぶりに読み返してみました。

沢木耕太郎著 「壇」
作家 壇一雄の妻、壇ヨソ子が人間「壇」と歩んだ人生を振り返る自伝風の読み物です。
この本は、「火宅の人」の登場人物、桂ヨリ子のモデル、つまり壇一雄の妻”壇ヨソ子”が小説「火宅の人」に記された部分と実際の出来事を(なれそめ)から(その死)までを回想でつづる形式の構成です。
これが、小説と言えるのかノンフィクションと言うのかよくわかりません。
ひとは、物を書くとき・語るとき、おしなべて自分を世界の中心に置いて語ります。
小説「火宅の人」は壇一雄と言う作家を「世界の中心に置いた自伝的私小説」と言うならば、書かれた立場の人間が「世界の中心に立って」書かれた小説がこの「壇」なのです
作者の沢木は、最後まで第三者的にしか現れません。
沢木と言う作者は「僕はこう思うとか、彼はこう思った」ではなく、妻ヨソ子がその時、こう思った、こう言ったと表現している面白さを感じました。
フィクションと言うより、ノンフィクション的な感覚が濃く、ベースになっている「壇」の私小説「火宅の人」があまりにも鮮烈なためリアリティが浮き立って感じられます。
小説は、登場人物の性格や特徴をデフォルメ(誇大視)させることにより、物語として成立させます。
代表作と言われる「律子 その愛」「律子 その死」、そして「火宅の人」に彼の次妻として、愛人のもとへ去られた妻として表れされる人の、まさに同じ時を別の視点から捉え時を共有した人の話なのです。
両者の同じ事由に対する観点は、対立軸となり壇の「死」へと続いていくかに見えます。
しかし、何時しか妻の「壇」への想いが、互いの対立したはずの世界の中心が「愛」というテーマで集合していく過程は彼女が深いところにあるものを探り当てた感じがするのです。
そのためにどうしても必要だったのは、「時間」だったのだと思いました。
友人は、それを「記憶の合理化」と言いました。(フクシマからの記事)
「壇」の著者は最後に妻ヨソ子に言わせます。
「壇」より抜粋。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>「もし、あなたが壇ソヨ子ではなく、全く無縁の1読者だったら(火宅の人)の桂ヨリ子をどうおもいますか?」
>それは、難しい質問だった。私は壇ソヨ子であり桂ヨリ子のモデルである。全くの第三者として判断するのは不可能だ。そこを、あえてとその方(沢木)はおっしゃる。
>「不幸な人だなと、思うでしょう」
>するとその方はさらに畳み掛けてきた。では実際の壇ヨソ子はどんな人でしたか。
>それも難しい問題だ。しかし答えは意外と簡単に浮かんできた。
>「貧しい女でした」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、でも、と私は続けた。
>「貧しかったけど、不幸ではありませんでした」
>最後にその方が、お尋ねになった。将来「火宅の人」を読み返すことはあるだろうか、と。
>私は即座に答えた。
>「死ぬまで読むことはないでしょう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それはそうだろう。
実際に傷つき、書かれて傷つき、読まされて傷ついたのだから。
3度も同じことで傷つけられたら、たいがいへたる。
早い時期に、「ことを起こす」ことを予見したかのような遺言じみた手紙が妻のもとに送られていたそうである。
しかし、その時は渦中の事に気をとられ、壇という夫が妻に抱いていた想いの記述部分には気が付かなかったそうである。
人は互いに、生きている間の時間軸もずれていっていしまうものなのであろうか。
そして同軸ではなくとも世界は丸いのだから、どの軸も中心へと向かっているのではないだろうか?
だから、誰もが世界の中心で語るのである。
・・・・・・愛と言う記憶の中では異軸であろうとも。
部分的に集合できれば「上等」。
100万本のバラには100万本のバラの軸があり、すべてが世界の中心へとつながり、すべてが違う空へと向かっていくように・・・。
向かう先は自由・無限。
つながっている先はたったひとつ。
宇宙は「そら」という。
♪ We are the whorld,we are the chirdren ♪
著者が狙ったものは1つではないだろう。
そのいくつかに何時しか引き込まれていった。
彼が狙ったものも、読みどころの一つなのかもしれません。
いやぁ、最後に来て実に真面目な文章かいたなぁ。
Posted by yo1 at 23:25│Comments(0)
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