2012年11月14日
神々の晩餐4
カーブヤー:蝙蝠。
沖縄には、5種の固有亜種が存在し絶滅危惧種に指定されています。
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ヌージグァー(虹)はアダンの木陰で微睡(まどろ)んでいた。
ユイ(ゆり)の花の白、月明かりが大平原を照らし甘い香りに誘われて彼女は、彷徨う。
煌々(こうこう)と降り注ぐ月明かりは、涼やかな静のエネルギーに満ちあふれていた。
心ゆくまで、ユイの花の蜜と香りを満喫し満ち足りた休息の午後であった。
彼女が、乗り移っているのはカーブヤー、彼女自身は山川・草木に宿る神霊。
民が神の場所と崇(あが)める御嶽(うたき)の傍で数百年経たクバの木の精霊であった。
神霊は、自分では五感(味覚や嗅覚など)で体験できないが、生きているものに乗り移りそのものの感覚を共有できるのであった。
ヌージグァーは、宿っているカーブヤーとともに、今宵の空中探検に思いをはせながら小さな泉の瀬音の安穏(あんのん)に
すこしの退屈と倦怠を感じていたことは確かである。
と言うより、とびっきりの”興味津々神さま”なのである。
「何かが降りてくる!」
天の神とは違うものが、神の道から恐ろしい速さで転げ落ちてくるのが感じられた。
深い青と薄紅色の2つの珠が、絡(から)まりながら降りてくる。
と、御嶽の門が開き、若者と娘が抱き合うようにして姿を現した。
二人は、眠っていたというより気を失っていた。
葉陰に泉の水を集め、静かに風を送った。
「目を覚ませよ」
御嶽とは、エネルギーの湧き出るところと理解した方がいかもしれない。
民の道が、あるように神の世界には神のエネルギーが通る道がある。
”ニーヌフェータイトウ”と呼ばれるこの島は、黒い潮の道にぽつんと孤立した絶海の孤島である。
遥か昔、サンゴ環礁が隆起してできたこの島は、周囲が断崖絶壁に囲まれ長らく人を寄せ付けなかった。
外観からはとても人が住めるような様子はうかがえないが、「幕」と呼ばれる外輪の中には所々に泉がわき豊かな平原と草木が生い茂り豊かな生態系を形成した風景が広がる海の要塞のような島であった。
長い長い時間の中で、海で遭難した民が幾人かそして幾度も上陸し僅かながら民の集落と信仰が定着した。
民の信仰の祈りは、石や草木に神を宿らせる。
神とは、想念のエネルギーの集合体である。
草木石に宿るそれはいつしか「意志」を持つ。
地の神の誕生である。
ヌージグァーはそんな神のひとりであった。
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天地創造の神が、「造りしもの」のバランスが崩れたとき予(あらかじ)めセットされていたプログラムが作動し、危機を乗り切るためのプログラミング。
マトリックスと言う映画はその筋立てで、おのれが持つ「絶対矛盾」の矯正へと向かいます。
マトリックスを意識下に置いています。
他方、琉球王国時代と言う魑魅魍魎が跋扈する中世・近世からは、ある意味「社会人類学のガラパゴス島状態」の文化の保存性がうかがえます。
小説「テンペスト」など自らの出自に、誇りを抱くところから独立した文化が生まれるのだとどこかの本で読みました。
私にとって、沖縄と言う場所は子供の「おもちゃばこ」みたいなもんで、興味が尽きることのないネバーランドなのです。
いつの日か、人生の後半のひと時をこの島のミラクルとスピリチュアルに身を浸し旅立の道しるべにする予感を大切にしたいと思うのです。
この島は、日本と言う大和文化を「アメリカ世」という物質文明の統治により、寸断・分断し精神文化的に独自の価値観を生み出してはいないだろうか?
何故、不思議、尽きることの無き、興味の島です。
気が向いたら、第5話に続く。
沖縄には、5種の固有亜種が存在し絶滅危惧種に指定されています。
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ヌージグァー(虹)はアダンの木陰で微睡(まどろ)んでいた。
ユイ(ゆり)の花の白、月明かりが大平原を照らし甘い香りに誘われて彼女は、彷徨う。
煌々(こうこう)と降り注ぐ月明かりは、涼やかな静のエネルギーに満ちあふれていた。
心ゆくまで、ユイの花の蜜と香りを満喫し満ち足りた休息の午後であった。
彼女が、乗り移っているのはカーブヤー、彼女自身は山川・草木に宿る神霊。
民が神の場所と崇(あが)める御嶽(うたき)の傍で数百年経たクバの木の精霊であった。
神霊は、自分では五感(味覚や嗅覚など)で体験できないが、生きているものに乗り移りそのものの感覚を共有できるのであった。
ヌージグァーは、宿っているカーブヤーとともに、今宵の空中探検に思いをはせながら小さな泉の瀬音の安穏(あんのん)に
すこしの退屈と倦怠を感じていたことは確かである。
と言うより、とびっきりの”興味津々神さま”なのである。
「何かが降りてくる!」
天の神とは違うものが、神の道から恐ろしい速さで転げ落ちてくるのが感じられた。
深い青と薄紅色の2つの珠が、絡(から)まりながら降りてくる。
と、御嶽の門が開き、若者と娘が抱き合うようにして姿を現した。
二人は、眠っていたというより気を失っていた。
葉陰に泉の水を集め、静かに風を送った。
「目を覚ませよ」
御嶽とは、エネルギーの湧き出るところと理解した方がいかもしれない。
民の道が、あるように神の世界には神のエネルギーが通る道がある。
”ニーヌフェータイトウ”と呼ばれるこの島は、黒い潮の道にぽつんと孤立した絶海の孤島である。
遥か昔、サンゴ環礁が隆起してできたこの島は、周囲が断崖絶壁に囲まれ長らく人を寄せ付けなかった。
外観からはとても人が住めるような様子はうかがえないが、「幕」と呼ばれる外輪の中には所々に泉がわき豊かな平原と草木が生い茂り豊かな生態系を形成した風景が広がる海の要塞のような島であった。
長い長い時間の中で、海で遭難した民が幾人かそして幾度も上陸し僅かながら民の集落と信仰が定着した。
民の信仰の祈りは、石や草木に神を宿らせる。
神とは、想念のエネルギーの集合体である。
草木石に宿るそれはいつしか「意志」を持つ。
地の神の誕生である。
ヌージグァーはそんな神のひとりであった。
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天地創造の神が、「造りしもの」のバランスが崩れたとき予(あらかじ)めセットされていたプログラムが作動し、危機を乗り切るためのプログラミング。
マトリックスと言う映画はその筋立てで、おのれが持つ「絶対矛盾」の矯正へと向かいます。
マトリックスを意識下に置いています。
他方、琉球王国時代と言う魑魅魍魎が跋扈する中世・近世からは、ある意味「社会人類学のガラパゴス島状態」の文化の保存性がうかがえます。
小説「テンペスト」など自らの出自に、誇りを抱くところから独立した文化が生まれるのだとどこかの本で読みました。
私にとって、沖縄と言う場所は子供の「おもちゃばこ」みたいなもんで、興味が尽きることのないネバーランドなのです。
いつの日か、人生の後半のひと時をこの島のミラクルとスピリチュアルに身を浸し旅立の道しるべにする予感を大切にしたいと思うのです。
この島は、日本と言う大和文化を「アメリカ世」という物質文明の統治により、寸断・分断し精神文化的に独自の価値観を生み出してはいないだろうか?
何故、不思議、尽きることの無き、興味の島です。
気が向いたら、第5話に続く。
Posted by yo1 at 10:05│Comments(0)
│物語